●分身
 分身主義の 「分身」 の本来の意味は、自分以外の万物を自分の分身と考えることではない。
 分身というくらいだから、大元となる本体があるわけだが、その本体はこのビッグバン宇宙(=分身主義ではビッグバンから生まれたこの宇宙のことを指す)である。現在のこの宇宙もビッグバンの初期の、0.000‥‥1(←小数点の次に0が33個)秒後の瞬間には、わずか数10センチに膨張したくらいの小さな玉だったようだ。
 その玉が、みるみる膨張し、温度が下がることで、その内部に存在している素粒子がくっついて、いろいろに組み合わせを変化させたり、リサイクルを繰り返したりしているだけで、物質を構成する原子の総数は、この宇宙の内部では決して増えもしないし減りもしない‥‥というのが現代科学の解明した宇宙の姿である。そんな宇宙の変化している過程で一時的に現れては消えている 「現象」 を私たちの神経系が捉えて、それを星や月や太陽や地球や、そして花や木やあなたや私と識別しているだけである。私たちは現象なのだ。
 要するに、我々の自我とは神経系の錯覚であるが、錯覚とはそれを持ってしまった時点で実体を変化させる影響力を持つものであり、自我を持ってしまった以上、それは確実に存在してしまい、それが見る一時的な現象たちも存在を主張し始めてしまうことになる。だから、この宇宙の万物(神経系の錯覚が識別してしまった一つ一つの現象)は、神経系が勝手にけてしまった(からだ)であり、それを分身同士と呼ぼうというのが分身主義であり、それが 「分身」 のイメージである。
 だから 「分身」という言葉に、切り離されたイメージを持つのは間違いである。この宇宙の全ての分身はイコールの関係であるというイメージが分身主義のいだく 「分身」 のイメージである。そこには全く主従の関係も相似や縮図の関係も存在しない。
 これらの意味が理解できれば、「私たちは、この宇宙の部分であり全体でもある」という分身主義特有の感覚も理解できるであろう。


●実体と幻想
実体‥‥人間が意識しなくても存在する全ての物質。
幻想‥‥人間の脳の記憶と外部からの刺激との相互作用によって作り出される全ての現象。認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥など。錯覚と言い換えてもいい。
 ただし、幻想や錯覚とは言っても、それは実際に存在し、実体を変化させる力を持つ。
 電気は目には見えなくても実際に存在し、実体を変化させることは、科学時代に生きる我々は誰もが知っているが、実は、幻想も脳内の電気の作用によって起こるものだったからである。
 実体と幻想は次のような見方もできる。
実体‥‥物質という容器によって変化する。
幻想‥‥記憶という容器によって変化する。
 分身主義は、この宇宙を実体(物質)だけの世界でできていると考える、いわば一元論である。
 どんな現象も、実体(物質)同士が関わり合った時に生まれるものであるから、煎じ詰めれば実体(物質)だけの世界であると言える。しかし、分身主義は、人間の脳という実体が他の実体と関わり合った時に生まれる現象だけに幻想という名前をつけて特別扱いする。
 何故なら、宇宙の長い歴史上、昨日今日出現した新参者の「脳の現象」が新しい扉を開いてしまい、今では大きな力を持つことになってしまったから、その現実を直視するためである。


●記憶
 脳に作られた反応の道のこと。
 人間の記憶は、CDやMDやDVDなどの記憶媒体の記録とは違い、神経伝達物質などの反応をひっくるめた、ある刺激に対して反応した 「一連の反応の道」 のことで、神経細胞には、それを外部からの刺激の伝播しやすい通り道として残す習性がある。
 人間のあらゆる精神作用、つまり、認識、連想、想像、思考、感情、意思‥‥などを作り出す元となる。


●ミラード・ウィル(mirrored will)
 直訳は、「鏡に映し出されている意志」のこと。
 意志(will)とは、今まで 「自発的に湧き起こる内的意欲」 であると信じられてきたが、実は、脳を取り巻く環境からの刺激によって従属的に脳内に浮かび上がってくるもののことである。
 環境からの刺激によって従属的に浮かび上がる意志ではあるが、人間以外の動物は、取り立ててそれが自分の意志かどうかなどということは意識しないし、重要な問題でもない。それを意識するのは人間だけであり、人間だけが意識する理由は、人間の脳が肥大したために、自分の脳を客観的に眺めるための鏡のようなものが脳内に生まれたからである。
 この自分の脳を鏡に映して自分が見ている状態が 「意識」 のことである。
 意識が鏡に映っている自分の脳を眺めた時に、そこに映っていた 「意志」 を 「自分の意志」 であると勘違いしてwillと名づけてしまったわけだが、実際には、その鏡に映っていたものは 「環境から浮かび上がらせ・られた意志」 であり、「自分の意志」 などというものはどこにも存在しない。
 人間の意識が信じていた意志(will)とは、「鏡に映し出されている意志」 をあたかも自分の意志であると思い込んでいただけなので、分身主義では、正確を期すために、will のことを、mirrored will(ミラード・ウィル)と呼ぶことにしたわけである。
 つまり、意識が勘違いした 「意志」 のことである。
 また、「自分の意志」 が私たち人類にとって重要であった理由は、意志が自分以外のものから浮かび上がるものであったならば、自分の存在自体が脅かされることになるからである。 しかし、一人の人の意志が 「みんな(=その人の脳を取り巻く環境)に浮かび上がらせ・られているもの」 であることは明白であり、その理解は私たちの存在を決して脅かすものではない。それどころか、その理解によって私たちは全ての人間とつながり、この宇宙とつながり、一つになった自分を発見するのである。


●リモラ・ドリーム(remora dream
 いわゆる我々が一般的に言う現実の別名。
 脳が我々の身体から開放されて自由に泳ぎ回っている時に見るドリーム(通常の夢)に対して、リモラ・ドリームとは、外界と五感などを通して接触している身体に、くっついて泳ぐ脳が見ている現実という夢。 外界と、(五感などを通して)つながっている身体にくっついて泳ぐ脳を、小判ザメ(remora)に見立てた命名である。
 このように分身主義は、この 「現実」 を、脳の見ている夢の一種と捉える。つまり、脳はコンビニのように24時間営業でひたすら夢を見ているわけである。
 通常の夢dream)は、脳内に貯蔵されている過去の記憶が、身体という実体から解放されて見るのに対して、現実という夢remora dream)は、外界と五感などを通してつながっている身体にくっついた脳が見る夢である。
 それは外界を縦横に泳ぎ回り、また、身体内部からの情報 (例えば、食欲や性欲といった本能や、お腹が痛い、おしっこをしたい、寒気がするなどの感覚) や、過去の記憶などに影響を受けたりして見させ・られている夢、のことである。
 これは科学がたどり着いた事実であるが、その科学に導かれて生まれた分身主義は、 「我々は現実をありのままに認識している」 という驕りにも似た今までの思い込みから人類を解放してくれる。そして、自分とは、この宇宙の万物とつながって動かされている存在でしかないことをわからせてくれる。それは操られているだけの無力な自分を認識することであるが、同時に、今までの小さな 「自分」 が、宇宙にまで拡大する瞬間でもある。


●現実
 現実とは、脳が過去の記憶に基づいて見ている幻覚である。
 これは、インド出身のアメリカの神経科学者、ラマチャンドラン博士の言葉でもある。私たちはみんな、その人の記憶によって歪められた現実を、現実として見ているわけである。
 分身主義では、これをリモラ・ドリーム(remora dream)と呼ぶ。


●DNA鑑定
 DNAの束の間の乗り物を特定させる作業。


●病気
 その人の身体の、現時点での一つの適応の仕方。自然界に反応した一つの状態のこと。
 医学は科学的なようでいてあまり科学的でない部分もある。本当の科学とは、自然界を中心に全てを考えるものだが、医学は人間を、ことさら人間の命を、何よりも中心にすえて優先的に扱い、死を遠ざけることばかり考えるからだ。つまり、現代の医学は、個人主義(=自分中心・人間中心的な感覚の意味)が作り上げている学問と言える。
 自然界中心の真の科学から見れば、病気などという忌まわしい含みを持ったものは、この宇宙に一つも存在しない。 分身主義の視点は、自然界中心のこの科学の視点である。


●適応
 分身主義は科学の視点(自然界中心の視点)なので、この宇宙に存在するものは全て自然界に適応している状態であると考える。例えばロケットが打ち上げに失敗したのも、それは 「そのロケット」 が、自然界に適応した状態であると捉える。私の目が見えなくなっても、それが私の目の自然界に適応している姿である‥‥と考える。
 人間中心に考えるから、失敗であったり病気であったりするだけで、科学的な視点で見れば、全てが適応している状態であるから、身体障害者とか、精神障害者とか、性同一性障害者などというものは存在せず、彼らはその状態こそが彼らの適応している姿であって、彼らもまた身体適応者であり精神適応者なのである。


●みんな障害者
 分身主義は、この宇宙に存在するものも存在しないものも、全て自然界に適応している状態であると考えるが、しかし、分身主義では、この宇宙の中に唯一、適応しにくいものがあると説く。それは人間の理性である。人間の理性だけが自然界の中で適応しにくく、その意味で、動物の中で唯一、理性を持つ人間だけは障害者である‥‥と考える。
 それは人間の咽喉が変化に富んだ音が出せるようになったことと、大脳新皮質が大きくなったこととが重なって、言葉という象徴化をする道具を持ってしまったことに起因する。言葉を持つことによって自我が生まれ、自我を持つことで善悪の基準を作る理性という物を持ってしまった。理性がなければ、他人の気持ちを思いやる優しさも持たずにすんだし、やりたいことを我慢したり、やりたくないことをやらなければならなかったり、そんなこんなで悩んだり迷ったり苦しんだりせずに、ひたすら本能の赴 (おもむ) くままに生きていればよかった。だから理性を持ってしまった人間は、この自然界では最も生きにくい、最も弱い存在になってしまったと言えるわけで、それは、自然界ではとても生きづらい障害を背負ってしまったようなものだ。
 理性を持った私たち人類は、この 「動物の中で最も生きにくく」、 「最も弱い」 という 「障害」 を持っているという 「気づき」 を共有して、謙虚に、そして弱いもの同士助け合って生きなければならない。そうしなければ、生きていけない存在が人間だからである。


●進化・発展
 これらの言葉や、退化、衰退などという言葉は、人間の価値観や感情に根ざした言葉なので、真の科学を標榜する分身主義では用いない。ただ、「変化」 とだけ記述する。
 そのため、「進化論」 などは 「生物変化論」 と言い換える。


●心を育てる
 自分の本当の姿を科学的に (=自然界中心に) 見つめようとする努力により、私たちの記憶が作っている 「自我」 という錯覚を拡大させること。それは、隣人と重なり、世界中の人と重なり、やがて宇宙と重なっていく。


●意思(意志)的解釈
 人間にはあるとされている 「意思」 や 「感情」 を、人間以外の動物やモノにも当てはめて解釈してしまう幼稚な思考形態を批判して用いる言葉。人間の価値観を当てはめてしまうので客観性を歪めてしまい、自然界を非科学的に解釈してしまうが、科学者が比喩を用いたりして素人に説明する場合に陥りやすい。


●ビッグバンの風
 ある事象の原因の原因の原因の原因の‥‥とどこまでもたどれば、全てのものがビッグバンにたどり着く、という発見から生まれた言葉。
 この宇宙で、今も引き起こされている様々な事象(人為的なものも含めて)を作り出す一つ一つの原因を総称して、ビッグバンの風と形容する。様々な事象を起こさせる 「環境要因」 のことであるが、重要なのは、この 「環境要因」 とは、140億年間に起こった全てのことであり、その一つ一つの原因は同じ重さを持つと考える点である。
 我々のこの宇宙を、膨張するビリヤードテーブルに見立ててみよう。約140億年前、、小さなテーブルに素粒子という球が超高密度・超高温の状態で密集していたところに最初の一突きが加わったと想像してみよう。それがビッグバンという、方向性を持った最初の一突きの力である。
 その方向性を持った最初の一突きの力は、瞬く間にビリヤードテーブルを膨張させ、素粒子たちをくっつけ原子を作り、天体を作り、やがて地球を作り、そこに生物を作り、生物に脳を作り、象徴化する(=言葉を使用する)脳を持つ人間を作り、思考や感情を生じさせ、それによって道具や機械を作らせたりして、今現在も少しも衰えることなく影響を及ぼし続けている。
 ビックバンからの影響(=風)は今も衰えることなく、ドミノ倒しのように、あちらこちらで何かの背中を後押ししながら連綿と吹き続けている。


●環境
 ビッグバンの瞬間の 「方向性を持った一突き」 が、玉突きの球を次々に弾くように、連綿と途切れることなく波及して、現在の私たちに降り注いでいる様々な影響のこと。この宇宙140億年間に起こっている全てのこと。
 人間は環境の媒体であるとする分身主義は、状況やモノや人や、それに遺伝情報までも、その人を取り巻く環境と考える。
 昔から、人の性格を形作るのは遺伝か環境かが議論されてきた。つまり、生まれか育ちかという議論である。しかし、140億年間に渡る広い視野で見れば、遺伝情報とは環境によって作られてきたものだし、その人が生まれてくることに関与したり、その後の生育に関与しているものなので、遺伝もその人を取り巻く環境の一部であると考える方が妥当である。


●事件・事故の本当の原因
 一つの事件にも、一つの事故にも、その原因として、140億年間に起こった全てのことが同じ重さで横たわっている。事件・事故の本当の原因はビッグバンの風である、と言い切ることで、その平等さを表現できる。
 その一つ一つの原因に格付けするのは人間の都合であり、格付けは客観性を欠き、事件や事故の本当の原因を見誤る。いつまで経っても人類が同じ事件や事故を起こすのは、本当の原因を見誤っているからである。本当の原因がわからないにもかかわらず、そのままでは気がすまないので、取り敢えずはその事件や事故の一番近くにいる人に原因を張り付けていた。それによって、自分は取り敢えずは原因から免れて(あるいは被害者側に位置づけされて)、ホッとする。その繰り返しで、いつまで経っても同じ事件や事故が繰り返されてきた。
 一つの事件にも、一つの事故にも、あなたや私が原因の一つとして同じ重さで横たわっていることが理解できなければいけない。
 今、人類の背中を後押しするビッグバンの風は、個人主義的な風(=環境)であると言える。この環境が分身主義的な環境にならない限り、事故も事件もなくならない。何故なら、現在の人類は個人主義的な環境の媒体であり、事件や事故は個人主義的な環境が、その媒体である人間に表現させているものだからである。


●宇宙という劇場
 我々のこの宇宙は、最初の一行を書き始めた 「ビッグバン」 という脚本家によって作られたシナリオ(=自然法則)に基づいて、素粒子という役者たちが演じさせられている劇場である。
 今現在も、素粒子という役者たちが、シナリオに忠実に演じさせられながら進行していく劇の真っ最中である。


●平和
 戦争や犯罪を回避(あるいは抑止)している状態のことではなく、全世界の人が不公平感や不満を持たずに仲良く生きれる社会のことである。
 人々の心の中に優越感や劣等感があったり、嫉妬や羨望、怒りや恨みなどがある間は、平和な社会とは言わない。


●個人主義
 遠い昔、人類が自我に目覚めた時点で、個人主義的な方向を志向してひたすら突き進んできたことは必然的なことであった。分身主義は、その個人主義を否定するものではなく、むしろそれを拡大し、その欠点を乗り越えたものである。つまり自我が宇宙大に拡大されることよって、今までの自我が消滅するというパラドックスである。


●真の科学
 普通一般の科学と真の科学の違いは、人間を中心とした視点か、自然界を中心としている視点かの違いである。
  この宇宙の全ての事象を、自分たち人間を中心にして都合よく解釈しようとせず、あくまでも自然界中心に解釈しようとするもの。分身主義の基本的姿勢。
 例えば、医学は普通一般では科学と言われているが、人間を中心に (とりわけ人間の生のみに執着して) 進める科学であり、真に科学的とは言えない。また、動物学や植物学でもその生態を解釈する場合に人間的な解釈(→意思的解釈)をしてしまい、真に科学的とは言えない場合も多々ある。
 真の科学によると、人間の 「意思」 や 「感情」 などといったものも、その脳を取り巻く環境がその人の脳に浮き上がらせた現象に過ぎないと捕らえる。


●分身主義の真価
 我々はビッグバンからかれた(からだ)である‥‥これはそのように考えた方が都合がいいというようなものではなく、科学的な事実である。しかしそれ自体は単なる科学的事実であって、価値は生まれていない。
 携帯電話などがない国に、空から携帯電話が落ちてきたとする。それを拾った人には、綺麗な色をしていくつものボタンがついた装置があるという事実だけである。みんながそれを手にして、そしてコミュニケートし合って初めて、そこに携帯電話の価値が生まれる。
 分身主義は科学の視点に違いないが、科学が発見したものも単なる事実に過ぎない。せっかく拾ったものを価値にまで高めようとするのが、分身主義である。
 例えば、英雄や天才、あるいは犯罪者は、その人を取り巻く環境が作り上げているというのが科学的事実であるが、それをみんなが理解して、英雄や天才を我々の代表となってやってくださっている誇るべき自分の分身さんだと考えたり、自分の身代わりとなった可哀想な犯罪者に救いの手を差し伸べようとするのが分身主義である。
 分身主義によって、この世界から嫉妬や羨望、それに怒りや恨みがなくなる。逆に言えば、世界中の人が分身主義という共通の道具を使いこなせない限り、初めて手にして何の道具かもわからない携帯電話と同じで、分身主義には何の価値もない。


●著作権
 あらゆる著作物は、一人の人の力で創られるものではなく、一人の作者を取り巻く環境(つまりこの宇宙の万物)が創ったものであり、作者自体はその環境の媒体に過ぎない‥‥と知っているのが分身主義なので、そもそも明白な著作者は存在しない。 あえて著作者は誰かと問われれば、分身主義では、その媒体に当たる人間を、便宜上、著作者と呼ぶだけである。 便宜的な呼び名なので、著作権などというものも本来は存在しない。
 しかし、分身主義はその媒体者を著作者と呼び、著作権を行使する。 同じ媒体である我々の代表となって、その媒体をやってくれたという感謝と誇りの気持ちから、著作者(=媒体者)の名前は永遠に残しておきたいと考えるからである。 同時にその著作物が、誤解や曲解を受けずに将来もちゃんと伝えられていくためには、原本を大切に記録しておかなければならないが、そのためにも著作者(=媒体者)の名前を目印として残しておくことが必要であると考える。
 その意味では著作権は放棄しないので、引用する場合はその出典を明らかにしたり、場合によってはその著作者に当たる分身さんに断りを入れるなどして、みんなで原本を守っていく意識が必要である。
 ただし分身主義は、著作物に関わる利益は放棄する。 この宇宙万物の総力の結集によって創られた物が全ての著作物だし、それらは人類の共有財産であるという見地から見ても、利益の独占は不当だからである。
(著作物 : 文芸・学術・美術・音楽などによって、思想または感情を創作的に表現したもの)


●お金に頼る社会
 現代の貨幣経済下の社会を批判した言葉。
 お金に全ての価値を決めてもらい、お金がなければ何にもできない社会。お金に守られ、お金に励まされ、やがてはお金に溺れ、お金に滅ぼされる。
 分身主義の目指す大人の大人の社会は、お金に頼らなくても成り立つ社会である。


●大人の大人
 大人の大人になるためには、真の科学に導かれた自分探しが不可欠である。それによって、自分たち人間は環境の媒体であったということを理解し、それを受け入れた時、自我が宇宙にまで拡大する(→心が育つ)。その時に、人は大人の大人になる。分身主義が目指している人間像である。
 現在の人間の段階では、成人式を終えたとか、社会に出たとか、子供を作ったなどという形式的なことで互いに大人と認め合い、自分たちを完成した姿だと思いたがっているので、そこで止まってしまっている。
 大人は子供たちを見て、「自分も昔はあんなもの信じていた可愛い時期があったんだなあ」 と微笑むように、大人の大人は、大人たちを見て、「あの頃は、あんなもの信じたり、あんなことに腹を立てたりしていた可愛い時期があったんだなあ」 と愛おしく思えるようになる。
 つまり、大人とは、子供たちを客観的に眺める目を持った人のことであるように、大人の大人とは、客観的に大人たちを眺める目を持った人であるが、そのためには自分たちを取り巻いている環境をちょっとだけ外側から科学的に眺めることのできる視点を持たなければならない。同時に、その環境が自分たちを作り、自分たちを動かしていたことに気づく視点が必要になる。
 次のような分け方もできる。子供の視点は自分だけが中心であり、大人とは、他の人の立場に立った視点も持てるようになることであるが、しかし、それでも大人は、まだ自分たち人間中心であり、大人の大人とは、その先の、自然界中心の視点である。




                                         編集・・徳永真亜基分身